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第三章:サブジェクト「大谷高校吹奏楽部奮戦記II」

京都府内の高校が合同で開催するナイターコンサートというのがあった。西京極球場のグラウンドで、
演奏やその他の催しものをするのだ。何にでも参加をしようと決めていた私は、このコンサートにも出場することにした。

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※ナイター・コンサート高校の部「月旅行」で、宇宙服を着てピッチャープレ-ト上で炭坑節を踊る(1969年)

当時、京都の高校吹奏楽は3Hで代表されていた。演奏も企画力も優れていた3H。平安高校、東山高校、そして花園高校で、これらの高校が合同で演奏会をすれば、京都会館第一ホ-ルは常に満席であった。そんななかに入れて頂ければ、部員にとってもよい刺激になると、合同練習をお願いし、積極的に参加した。そんな折には、当時の東山高校の顧問であった山崎敏先生(元京都産業大学教授)が、いつも私を励まして下さった。私の編曲を積極的に取り入れてくださったのも先生であった。夏のナイターコンサートの合同曲に、大流行していた『ブルーシャトー』を行進曲に編曲して、先生からおほめの言葉を頂いたことは今でも忘れられない。先生が平安女学院を経て京都産業大学に移られるまで、多くの助言を頂いた。

大谷高校吹奏楽部創設期の練習の苦労話は前にも述べたが、OBの語り草になっているものに当時の練習場がある。その練習場は、大谷高校開校期の明治の建造物で、半分は物置として使用されていた。冬は冷房、夏は暖房完備、その上薄暗い裸電球の下での練習であった。だが部員たちは、アイデアを駆使してどんな状況下でも練習ができるように考えた。

野球部のボールが屋根を直撃して、いたるところで雨漏りがすると、ビニール袋で急造のトイを作り、雨水の排水を考えた。薄暗いといっては、銀紙を張った板を天井に張り、反射板をこしらえた。冬は防寒着に身を固め、夏は男子高校の特権を生かし、パンツ一枚の練習もした。私も若かったからできたのだろう。そんな厳しい条件のもとでの練習に耐えた部員たちには、頭が下がる思いでいっぱいである。

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※校内演奏の一コマ(左手が図書館)12:15~12:50

こうしてでき上がった大谷サウンドが、先輩から後輩へと受け継がれてきたのである。また、何年続いたであろう、自分たちで選曲しプログラム作り、お昼の休憩時間に校庭で行ったプロムナ-ド・コンサートは当時としては画期的なものであった。そんな練習風景も昭和五十三年(1978)当時としては全国に誇れる専用の練習場が完成し、前述のような心配もなく、部員たちは最高の環境で練習に励むことができるようになった。

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※大阪明浄学院の校庭で(1967年5月)明浄田中校長先生及び教頭先生の顔も見える

大谷高校吹奏楽部創部より一年おくれて、大阪明浄学院高校に吹奏楽部が、創部されることになった。以前、私がコーチをしていた京都外国語大学の音楽部に在籍していた荒木氏が、教員として明浄学院に就職した。無類の音楽好きの彼はそこで吹奏楽部を作ったのだ。創部の時に私も彼から頼まれて、よく指導に出かけた。そんなことを繰り返しているうちに、交歓演奏会を開いてみてはと、彼と、大谷の校長に提案した。首尾よく、互いの学校のレベルアップのためにと校長も賛同してくださった。

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※明浄を迎えて交流演奏(1968年3月)演奏の後は会議室で学校主催の交歓会

で、いよいよ合同曲を決め、その練習を始めたのだが、ひとつだけ大きなことを見落としていた。明浄の皆さんを大谷に呼び、練習することは可能だったが、明浄は男子禁制の学校である。なんとか頼み込んで、明浄に初めて男子校の生徒が入る許可を出してもらった。しかしこの交歓演奏会は二回ほどでピリオドをうつ。やはり男子校と女子高の交流には、さまざまな障害があった。ただ、確実に双方のレベルは上がった、と確信している。顧問の荒木先生をはじめ、学校関係者のご尽力が実り、今では全国に誇る吹奏楽部を作られたことに、頭が下がる思いである。