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第三章:サブジェクト「京都映画音楽協会設立に参画」

当初、月に十本ほどの映画音楽に携わった。もちろん、すぐに作曲や編曲に携わったわけではない。作曲家のスコアより楽譜を各パートごとに写譜することから始まった。前にもふれたが、映画の場合、音楽は最後にまわされる。封切り日ぎりぎりということもあった。音入れのその日に試写会なんて、恐ろしい荒技も、時として行われていた。コピー機のない時代ゆえ、写譜だけでも手間がかかる。その上パート別の楽譜を書くとなると、二日や三日の徹夜は覚悟しなければならなかった。二つほど映画の音入れが重なると、とにかく、シーン何番の音楽だけでも問に合わせてほしいと助監督に泣きつかれたりもした。

東京からきた作曲家は、旅館に缶詰状態のなか、とにかく要求されるシーンの音楽を作曲していく。私もそこにいて、仕上がったものをバンド用にパート分けをするのである。超一流旅館やホテルに泊まり、豪華な料理も用意されるのだが、気持ちが焦り、ぜいたくを楽しむ余裕はなかった。

ぜいたくといえば、楽譜がどうしてもダビングに間に合わないと思った時は、タクシーを待たせておき、仕上がりしだい楽譜だけを座席に乗せると往複の料金を運転手に払い、時間の節約を図ったこともある。誰も載せないタクシーの料金を払うことほどの、ぜいたくはない。(最近このようなタクシーの利用が新聞紙上で取り上げられ問題になった )

作曲家も足りないし、演奏家も足りない。ましてや写譜や編曲に携わるも者はもっと少ないのだ。どうしても、作品の管理や若い作曲家の料金設定がないがしろにされだした。若い作曲家が、ギャラの交渉をしようとしたら、師匠に打診しないといけなかった。実際にはそんなことはできないため、泣き寝入りをしていた。私も松竹京都撮影所で助監督をされていた、佐々木勘一氏の自主記録映画「森鴎外の少年期」や「嵯峨野の子供たち」の作曲を依頼され、一緒に仕事をさせて頂いたが、殆どがボランティアであったと思っている。

そんな折、友人でもあった岡崎幸一氏が作曲家のマネージメントを目的として、京都映画音楽協会を設立、私にもぜひ参画してほしいとの要請で、その末席に着いた。

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※55年前ではこんなに若かったのかと不思議です(眼鏡はダテですが ひげは自前です)

最初にしたことは、映画会社への作曲家の斡旋で、その際にきちんと値段の交渉は済ませておく。さらに若い作曲家の積極的起用を上申する。新人の発掘といってもよい。いろんなところにその食指をのばしている時、鏑本創氏(土曜ワイド劇場「江戸川乱歩シリ-ズ」の音楽担当/「銀座の恋の物語」の作曲)や小川寛興氏(NHK連続テレビドラマ「おはなはん」の音楽担当/「さよならはダンスの後に」の作曲)らと知り合った。ちなみに小川氏は服部良一先生、鏑木氏は木下忠司先生のアシスタントもされていた。両氏とも、私と年齢が近いということもあって、すぐ打ち解け、こののちも仕事でご一緒させていただいた。

鏑木氏とは、インドネシア合作映画で鵠沼のご自宅で仕事をした時の苦労話(三日連続徹夜)は、何時もお出会いした時に、話題になる思い出話のひとつであった。その鏑木氏には大谷時代もお世話になり「吹奏楽のための交響的瞬間」「エモーションⅡ」の吹奏楽作品を提供してくださり、お忙しいスケジュールを割いて客演指揮をしてくださった。私より一歳年上のよき友であり、師であった鏑木氏も昨年10月他界されたとの報に接し、ただただご冥福をお祈りするのみである。「おたま人生」の出版にあたり鏑木氏がら寄せてくださった特別寄稿文を最後に記載させていただきました。

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※40年前 新築の鏑木邸の表玄関で(頭の毛は染めていませんが 真っ黒で光っています)

小川寛興氏には、交響曲「日本の城」の吹奏楽への編曲許可を頂き 大谷高校吹奏楽部で演奏させていただいた。五楽章からなる大作で各楽章に和楽器が加えられ、演奏旅行にはどれかの楽章を演奏させていただいた。また、吹奏楽コンクールでも自由曲として取り上げさせていただき好評を得た。ただ残念なのは4楽章が未編曲として残ったのは残念である。

阪急電車の河原町四条への延伸のための地下工事がおわった頃、柳馬場四条(京都大丸一筋東)にあった映画音楽協会は、五年ほどで事務所を閉じた。映画そのものの衰退とともに、京都での製作本数が減り、音楽ダビングの工程が東京撮影所に移行、その上作曲家と直接交渉をする映画製作者が増えだしたことが原因であった。編曲者に対する著作権の保護など、今から考えれば、進んだ考え方の協会だったが、映画界の当時の体質にはマッチしなかったのであろう。

新幹線開通を機に、私の仕事場も必然的に東京へ移り、大谷と映画音楽の二刀流の時代が始まった
余談になるが、私にはもうひとつ筆名がある。それは高月一郎という名である。撮影所の技師たちが、受けてくる超B級映画の音楽を、私はこの名前で作曲していた。ギャラも高くなく映像も悪い、上映される期間すら分からないようなB級映画。それはそれなりに、名も知れない雑草として、この時代を生きていたのである。そして高月一郎の名も、ここに記すのが最後で、もう二度と人前に現れることもあるまい。


特別寄鏑『修羅場こぼれ話』 鏑木 創

映画界も、1950年代をピークとして、いまや昔日の面影もありませんが、当時30歳で仕事を次から次へとこなしていた人間にとって、映画の音楽ダビングは、まさしく修羅場でありました。

まあ若くて体力もあった所以で、自分の休を痛めつけて快感に浸っていた向きもなきにしもあらずでしたが、とにかく何でもよいから、譜面を書かねばならないという窮地に追い込まれるわけで、それこそ「火事場の馬鹿力」「窮鼠、猫を噛む」の類での瞬発力を振り絞っての、苦闘の数日間でありました。

封切り日は決められていて、撮影スケジュールが天候、あるいは他の理由で延びてくると、スケジュールの尻から2番目の音楽ダビングのための作業の時間は、とくに作曲をする時間は限りなくゼロに近づくわけで、ひどい時は30数曲書くのに、12時間しかないということも数多くありました。一曲あたり30分、テンポの速い曲で3,4分ともなると、60から80小節は書かなければならないし、それこそ考えている暇もない事態となります。またそれを間に合わせるのが、フロだともいわれていました。

当日は、前夜から泊まり込みで一緒に徹夜した助手と、写譜(オーケストラスコアからパート譜に移し替える仕事をする)と、ともに朝もうろうとした頭で、撮影所に入ります。時には遂に間に合わず、オーケストラ指揮者のかたわらのテーブルで作曲をする猛者もおりましたが……。

こういう時にアシスタントの体力がなく、ため息つきつきやられては、たまったものではありません。その点で、木津さんは実にタフで頼りになりました。

①弱音を吐かぬ ②譜面がきれい ③スケッチのあいまいさを修正できる

以上の条件を満たしてくださいました。

木津さんいわく、「私はブラスバンドでマックロケのスコアーを書くのになれていますから、こんなのは平気です。おまけに写譜まで自分でやりつけていますが、映画では他人がやってくれますから」と。いくどか、時間に追いつめられてパニックになる寸前に、「時間が来れば、すべて終わっとる」
と、いうのが木津さんの名セリフでした。